You've got another think coming

建設会社の総合サポート屋の考える事

国産にこだわるのは悪いことじゃない。

ここ最近は自宅で仕事しながら、手が空くと本を読んだり、YOUTUBEでだらだらビジネス系の微妙でこれ以上は有料サイトになりますよ的な講義物を見たりしている。その中で興味深いと思った事があって、高くても国産にこだわる人と安ければまあまあな品質でも良い人の二極化してきていると。物にも勿論よるだろうけど、そういう傾向になってきているらしい。確かに家電なんかでは値段や価値の高いものに関しては、国産に自然と手が伸びていたりするよなと思う。でも季節ものや長持ちしなくても良いものならコスパ重視で聞いたことのないブランドを購入して、意外と長持ちしたらラッキー、壊れたら仕方ないから買い替えるか程度の認識だった。

 

最近の傾向なのかお得じゃないと許せない風潮もあり、コスパ重視勢が圧倒的シェアなのかと思いきや、エコ発想も加味した、良いものを長く使いましょう勢も拡大しているらしい。コロナ過で自粛している中で、家の整理や片付けをしていくといかに無駄な物やとりあえず買ってストックしていた物の大量さに気づいたのではないかと思いつつ、たしかに自分の家を見回してみると、あれば便利ですよグッズが溢れている。あれば便利グッズは名前の通りにあれば便利な場面が来ないと全く便利ではない。そして使用する場面なんぞ殆ど来ないまま待機している物が多い。昔、引っ越しのバイトをしたときに主任が「半年使わないもの捨てたほうが良いですよ!」と引っ越し作業中に主婦にアドバイスした事がすごく印象深い。バイト先の飲み会の3次会で主任に家にお邪魔したら、当然のように物が散乱していて、バイト全員が「これはゴミでは」の思いを酒で飲みこんだ事もあった。裏腹なのは仕方ないだって「にんげんだもの」。

 

国産だから海外製だからでの優劣はないけれど、使用頻度、使用環境等で購入を棲み分けるのが一番良いのかなと思う。勿論、海外製でも品質の良いものや独創的な品はたくさんある。この場面しか使わないなんて時には海外製、100円ショップを大いに利用すれば良いだろう。

 

いやいやでは国産にこだわることは何故に悪くないかと思ったのかと言うと。単純に国内の会社でお買い物することは、経済を回すことになる。その会社が売上が良くなれば税金も納めるのでトータル的には日本全体でプラスになる。例えばクレジットカードでは日本は国際ブランドでJCBがある。国際ブランドを持っている国は少なくて、何か国しか無い。アメリカのクレカを使用して手数料を払うことは極端に言うとアメリカの利益になる。世界全体でみると景気が良くなる事に越したことはないけれど、国内としての恩恵は少なくなる。ただ例えばアメリカのクレカ会社でも日本支社があったりするのでそこまで単純な話ではないけど。JCBに関しては日本国内では勿論シェアは多いけれど、国外では使えない国や限定される店も多く、使い勝手の面でシェアは低いけれど、不便さの解消は進んではいる。でもシェアが低い国は不便が上回ったり、ブランド力、コマーシャル力なんかで差がついている部分もある。

 

国産第一主義になれって話ではないけど、使用場面、使用頻度、品質等を加味して消費していく事が大事。国産だから長寿命や品質が良いなどの築き上げてきたブランド力に過信したり、クリエィティブな発想ではなく、焼直し商品を乱発した背景もある。その間に海外製で安価で良品に圧倒されているの当然の結果。

 

魅力的な商品や良品質な物づくりが、日本の良さでは無いかと思う。国産を買わないと経済が云々なんて難しい話ではなく、多少、高くても品質の良いもの、価格に対してのコスパの良さなどのトータルで勝負できる、付加価値の高い商品が出てくる事で自然と消費者も購入して、厳しい日本経済が回復してほしい。

 

国産、海外製問わず、いっぱい稼いで、賢く消費することがアフターコロナでは必要なマインド。製造業、建設業など様々な分野でモノを作ることにこだわってきた日本が安価で利益率の良い粗悪品を売ることが商売の基本になるのは悲しすぎる。

「お客様は神様です」について考えた。

会社を経営していて、恐ろしいことは仕事が途切れることや、仕事したのに対価が貰えないなんてところだと思う。

そういう意味では本当に昔から言われている、「お客様は神さまです」が当てはまる。

この言葉は諸説あるけれど、日本の基本的な接客や商売文化に根付いているように思う。

海外旅行に行くと接客に不満や不安を覚えることもあるけれど、まあこれがこの国の文化というかこんなもんだと慣れるとさほど気にはならない。

でも帰国して日本で食事すると圧倒的な接客力に驚いてしまう。

これが当たり前に行われている、日本が素晴らしいかといえば、勿論素晴らしい。

だけどもここまでする必要があるのかな、ふと考える事もある。

接客を通り越して媚びてるとまでは言わないけれど、だいぶ近い店もある。

そんな事情から勘違いして、クレーマー的な言いがかりや湾曲して解釈した人達を生み出してるかもしれない。

お客様は神様ですはあくまでも、お店の従業員が心に思う事であって、お客様が神様を意識して利用する時点で神からモンスターへの転落である。

どちらも闇落ちしたとなると、問題は更に深刻化する。

神様だと思って接客してもらえている事に感謝するべきだし、お店も神様みたいに振舞ってもらえる事に感謝する。

お互いに勘違いして、闇堕ちすると何も生まれないし、状況は良くなることはもう無いと思う。

神様みたいに扱って貰いたいなら、相手を尊敬して接する。

その事での相乗効果はバツグンだと思う。

嫌な店には近づかなきゃいいだけなんだし。

「神」と「神対応」でこんな時代に打ち勝ちたい。

僕は神様もっと仕事くれないかなと空を仰いだ。

 

 

正論も伝え方次第を考えてみた。

先日、気になる記事を見てうーんと考え込んでしまった。

新人研修をしていた講師が研修中に居眠りやスマホをいじっている状況があり、そんな中新人の1人が遅刻をしてきた。気を引き締めるためにも講師は「遅刻はダメだ。次からは遅刻しないように」とそれほどの強い口調ではなく、注意した。もちろん講師だって今の時代に「遅刻なんてもってのほかで、社会人失格だぞ」なんて昭和的な怒り方はしてはいけないことは重々承知しての叱責というか注意。

ですが新人は研修期間の終了を待たずに退職。

それを受けて講師は人事部より注意や叱責を受けることになったと。

ソフトな口調で注意しても、このような結果になったのは何故かと考えてみると、全員の前でつい注意したことが講師のミスだったのかもしれない。

講義の終了後にでも、注意していたら結果は変わっていたかもと思います。

今の時代背景を考えると周囲から目立つことやましてや良い事での目立つことさえ、出る杭は叩かられるのではと喜ばない傾向になってきている感がある。

その一方でハッキリと意思を表明することもある。

飲み会や仕事のリーダー的なことを依頼するとハッキリと「勘弁してください」、「辞退させてください」と。

仕事に於いてはこれからの自分の人生にも生活設計にも役に立ったり、スキルの向上にも繋がるしとアドバイスしても、「自分より適任者がいると思います」と。

「成功も失敗も糧になるよ」と言っても、決断を翻意して承諾することはなかなかありません。

若者だと尚更その傾向は強いけど、今の時代的に「リーダーや責任者は貧乏クジ」って事も上の世代はハッキリと認識して、言動も行動もしないといけない。

ネットであらゆる事が比較でき、選択の失敗を回避する。

そのことを直感的にわかっている若者や認識し始めた中間層にも、多少のインセンティブがあっても貧乏クジなのだ。

そのことを理解しておかないと、例えば正論であったとしても、伝え方次第で伝わり方が湾曲して伝わったりしてしまう。

そこまで媚びて部下と付き合うのかという人もいるけど、大なり小なり若者に対してのジェネレーションギャップは上司も先輩もいつの時代でも感じていたのに、みんな仕事がてきるようなったり、時間の経過と共にその時の境遇や思いを忘れてしまう事が問題を大きくする。

みんなの前で怒られたりすることなんて、いつの時代であれ恥ずかしくて避けたいことなのだ。

昔、先輩に「年寄りは知恵を使え、若者は体を使え」と言われた事がある。当時は何のことか朧気にしか分からなかったけど、歳をとった今は理解できる。

若者に老害もなかなかやるなとか、一理あるなと柔軟なジジイと思ってもらえるようになりたい。

話題の森さんみたいな老害の皇帝がいるうちに。

 

 

 

 

 

心を整える場所の必要性について考えてみた。

ネットでふと気になった記事があり、凄く納得いく部分が多くて、興味が湧いてほかの本も注文し、感心したり、ニヤニヤしながら楽しく熟読してしまった。 

最初に印象深く興味を持ったきっかけが、筆者の高殿円さんの息子さんが言葉をしゃべる事が遅かったので、いろいろな習い事をさせる事が難しい中で、それでも何かに触れさせいたい思って、ある絵画教室に息子さんを通わせる事になったと。

そこは広い敷地、大きな家、先生は三代にわたっての画家や陶芸家などのアーティスト。

息子さんは絵も上手に描けるでもなく、通った5年間でひたすら電車を描き、先生は何も言わず、好きにさせてくれていたそう。

森のような庭には背の高い木があって、長いロープで結んであるブランコがあった。絵を習いに来ている子供たちは、好きな時間に来て、好きな時に庭に出てブランコに乗る。そうして気が済んだらまた絵を好きなように描く。

絵画教室を辞めた何年か後に、高殿さんは息子さんに絵画教室のブランコの話題を振ると、息子さんは「あの頃、あそこに通てっていた子は自分の様にうまく話せなかったり、自分の体をコントロールできなかったしてた。そういう子は普通の人よりとても長い準備が必要で、その為にブランコに乗ることが都合がよかったと」。

高殿さんは「息子の言わんとしていることは分かる。ブランコに乗って揺れている間は、ぶつかったら危険だから誰も近寄らない。その間にゆっくり揺れながら必要な事を準備できる」。

 では家にブランコがあれば良いのかという事では無くて、そういう子には学校や社会にもブランコがあることが必要だったと。

今の社会情勢等ではどんどん不安要素の多くなっていく傾向になりそうではあるけれど、どんな人、老若男女問わず、ブランコ的なリラックスできたり、ゆっくり心を整える場所が必要なんだと思う。

忙しい中でそんな場所を見つけるのは難しいかも知れない、場所ではなくても相談ができるが人や見守ってくれる人も心を整えるには良い場所となれるだろう。

後日談として息子さんは「庭のブドウを食べたり、薪ストーブでマシュマロを食べたと」食の記憶も本当に大事。

人口が減少ていくなかで、様々の価値観や人が変化していく中で、世知辛い世間に向かうかもしれない未来だからこそ、心を整えて頑張る人、頑張ってる人を見守れる環境、成功体験の積み重ね、美味しい物を食べて睡眠をして健康の維持がこれからの時代に本当に必要な事なんだと思う。

絵画教室の先生やブランコの様な存在になりたいなと思う。

上流階級 富久丸百貨店外商部 (小学館文庫)

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  • 作者:円, 高殿
  • 発売日: 2019/07/05
  • メディア: 文庫
 

 

 

 

苦情とクレームの違いについて考えた。

苦情とクレームは日本画語か英語の違い、恐らくイメージ的には一緒な人が僕も含めて多いような気がしてたのだけど、いろいろと文献なんかで調べてみるとニュアンスが違う。良い意味でのニュアンスと言うか、使い方や言い方も含めて違いがなんとなく理解できた。本来の意味で使用すると、「苦情は苦しい事情の事で難しさや難儀さが伴う事情の表現で、対象となる事に対して本来の姿等と違う事を伝えたり、感情的に怒っていたりする様子」との事。

企業にとっては例えば建設工事なんかでは、こういう現場が出来上がりますよって説明しているにも関わらず、ニュアンスの違いなどから、施工のプロセスの中で意見や苦情を貰う事があるパターンは多いわけで、説明が分からない部分について苦情があると、会社なり自分なりに改善することで、次回からのミスをや説明不足を補いつつ、フィードバックして会社単位で顧客満足度の向上を図る事ができる。苦情は顧客の意見をダイレクトに貰うことで、会社にとっては財産になる部分も多いような気がする。ではクレームの本来の意味と何だろうと思うと、「クレームとは本来は商取引などで違約や損益があった場合、相手に対して損害賠償請求を行うこと」

これは全く苦情とは違う意味合いで、ある意味商売などにおいては当たり前の事でもある。この場合ではクレームを受ける時点で、取引相手に損害や違約があったと相手に主張されている事なので、諸事情はお互いにあれど相手と真摯に向き合い解決しなければならない。「苦情」「クレーム」のなんとなくの違いが把握できたけれど、本来の意味とは違っているのが、理不尽な要求を企業や個人にする人を「モンスタークレーマー」と呼ぶことで両方の意味になっていった部分もある。苦情は企業にとっては評価や技術力の向上などに顧客と向き合える部分もある反面、クレームとの本来の違いで言えば「苦情には感情が含まれている」という事。

最近で多いのは、ハイブリッド型の感情論で損害賠償を主張する、「モンスター苦情クレーマー」である。

工事などしているとこのタイプが非常に多く感じるし、ニュースなど見ているとハイブリット型+SNSという変異種まで現れてきている。

クレーム処理する場合は、感情的になっているクレーマーには迅速に対応し、よく相手の立場で話を聞いてあげて、怒りの感情が静まってから、いろいろな対応策や提案をしていたけれど、感情が沸騰しているタイプよりも、クレーマーの付き添いで来ている、ネゴシエーター風な雰囲気をだす内縁の夫などワンクッション置いた人がクレーマーと共に表れて騒がれて往生したことが非常に多かったので、その場合に有効な手段があるよと先輩に教えて貰った方法で潜り抜けてきたことある。

ほんの一例だけど、それは冒頭に謝罪を述べて、「言葉による行き違いなどで問題あると対応に不備が出るので、ICレコーダーで録音させてください。顧問弁護士にも言われているので」と言うと、さっきまで親の仇の如く罵詈雑言を浴びせられていたけれど、急に怒りを抑えた変な敬語になったりするので、そんなこんなで話を聞いて、折り合える点で妥協する事が案外早くできるので、オススメ。

でも苦情やクレームを来ない努力をするのが第一としても、それでも避けられない事もある事が多い時代なので。

あけましておめでとうございます!

あけましておめでとうございます!今年もよろしくお願いします。

 

会社的には1/11日からの営業を高らかに宣言したのですが、正月感も無いので、通常営業的に仕事をなんとなく始める締まらない、2021年の営業開始となりました。

単身赴任生活で移動もしているため、自粛して帰省はしていなかったこともあり、普通にスーパーで買い出しをして普通の食事で過ごしており、無理矢理に正月感を演出する為にカニでもドーンと買おうかなと思い手に取れど、殻捨てるの面倒やゴミ箱臭くなるの嫌とかの思考が浮かびあがって買わずで、正月演出皆無の本当に不思議で静かな正月となった。

新年なので抱負なんてたいそうな物は薄いけど、こんな時代だけど人を雇用して実務的な仕事を増やしたいと思っている。コンサルや調査的な仕事も増やしたい。願望と希望だけは大きくあるけど、地に足はついているかは微妙な状況での見切り発車のオフサイドはいつもの事。それでも何かしらの変化をしながら環境に適応していかないといけないと思う。スモールビジネスでは環境が適応してくれるまで待てるほど資本力もない。それならフットワーク軽くリスクも軽くでいろいろと試したい。

建設業はコロナのダメージはほかの産業よりは低いけど、今後の事を考えるとどういう傾向になっていくか自ずと見える部分もあるけど、回復する土壌と余白はある。

去年の現状、今の現状を見ると世界全体が暗くなって不安が広がっている今こそ、新しい価値や未来に投資する2021年にしたいと思う。

 

今年もお世話になりました。

今まで生きてきて、今年ほど色々なことが初体験というか、不思議な年だった事は誰しも無いのかなと思う。今までの常識が簡単に捻じ曲げられたり、その恩恵を受ける側面もあったりで、単純に不思議な年だったとしか言いようが無いと思う。幸い僕の生息する建設業ではそれほどのダメージは感じなかったけれど、色々な制約というか、対策は増えた。観光や飲食業に比べたら微々たる対応策で済んではいるので、他業種の友人からは羨ましがれる反面、税金主体の業界なので何年か遅れて北斗神拳の如く効いてくるかなと思っている。なんにせよ令和2年はクリスマスや年末感も感じれないまま終わる。難しい問題や課題を抱えたままに令和3年を迎える事になるのだろうけど、全体的に明るい話題やムードに変わって欲しいと思う。マスクしないだけで、人を批判するような世相は続いて欲しくはない。医療従事者の皆さんのように最前線が最善の保障なんかを受けて欲しい。建設業を長くしていると災害などて悲惨な現場に遭遇や見聞きした事は沢山ある。だけれどもどんな環境でもへこたれずに明るく乗り越えてきた国民性は目の当たりにしてきた。未曾有の危機を乗り越えてまた平穏な世界になって欲しいし、なると信じている。

今年は起業して2年目もそれなりに平々凡々と終える事ができたのは、本当に皆様のお陰でした。こんは訳のわからないブログを見ていただいたり、仕事の依頼まであったりと、個人的には実りある楽しい一年でした。来年も皆様にとって良い一年になるようならお祈り申し上げます。僕的にはコロナで家に帰れない孤独なお正月を恨みつつ、新しい年に向けてゆっくり色々と企みます。皆様良いお年をお迎えください。ありがとうございました!