You've got another think coming

建設会社の総合サポート屋の考える事

京アニ放火事件に思う、悪意や殺意のこと。

【悪意や殺意は当然、昔からあったのだ】

京アニ放火事件はいまだに事件の核心や、全容は朧気にしか見えてこない。放火事件と言っているが、放火殺人事件だ。川崎市登戸の事件、障がい者施設の事件と言い、痛ましい大量殺人事件が起きている。今回の事件には哀悼の祈りをささげる事しかできません。犯人に同情する気は無いし、余地は無いと言いたい。

だけど本当に余地は無いのだろうかとも思う。余地という意味は改善、同情などにも使われ、字面では「余っている土地」。「余裕」、「行動したり、考えたりすることができるだけのゆとり」との事。事件が起きると「死ぬなら一人で死ねばいい」、「周囲を巻き込むな」等々。性善説をすべて信じるつもりは無いけれど、すべて否定するのは悲しすぎる。「弱い者ほど、社会のせいにする。社会が悪い、体制が悪い、環境が悪い。」と偉い社会学者さんが言った。その通りと思う部分と違和感を感じる部分がある。そんなことは自分でも理解してるけれど、いろいろな悩みを抱えて、孤独の中で絶望する人はいるのだ。こんなにネットで便利な世の中だけど、情報過多でいろいろな人と繋がる事もあるので、相談できる人も、自然と悪意のある人にも出会う確率が上がるのかもしれない。

殺意については知人の格闘家にそれだけ強かったら、怖いもの無いよねと聞いたら、「ルールがあればね。ルールがなくてナイフでも持ってる人見たら、一目散に逃げるよ」。ルール無き、殺意と付き合うことはできないのだ。

殺意が悪意の上位互換とは言わないけど、もし延長上にあるのであれば、余地のあるうちに相談なり、発散できることがあればいいのにと。それが学校やカウンセリングなのか先生なのか親なのか。ネット上で相談できる人でもいい。マスコミも犯人や推測を垂れ流すのも結構だけども、悩んでる人にはこんな相談できることや、窓口やそういう機関もあることを報道してほしい。思い込んだ人にはそんな事ですら上辺だけの興味のない事なのかも知れないし、それでもそういう場所を切っ掛けに話し合い、お互い歩み寄れればいいのだ。世界や世間につながるのかも知れないし、部屋からでて違う考え方に触れるだけでも違うと思う。まずは自分のできる範囲で、それこそ「余裕」があるうちに。

親や周囲の人ならできる範囲で余裕のない相手に論争や諭すのではなく、話しを聞いてあげることで、殺意が悪意に悪意が善意にダウングレードして貰えれば、最悪の事態は防げるのではないか。

 

「死ぬなら1人で死ね」よりは多様性のある中で共存したほうが良いと思うのだ。

 

思春期の時に聞きまくった、ブルーハーツの「良い奴ばかりじゃないけど、悪い奴ばかりでも無い」を僕は信じているのだ。

 

 

www.mhlw.go.jp