You've got another think coming

建設会社の総合サポート屋の考える事

新入社員研修の現場からたどり着いた一つの答え

ブログを書くと事もできないくらいに、資料の作成やセミナーで怒涛の4月も現時点であと1セミナーで終わりを迎える。

 

ありがたいことに土木サポート協会主催のセミナーも来月は関西、中国圏で2週間開催と嬉しい悲鳴と体の悲鳴が同時にやってきている。

去年と比べて新人研修にどこの会社も力を入れてきてるのは人材不足の加速化が予想以上に地方に襲いかかってるんだろうと思う。

去年とは比べ物にならないセミナーや教育本数に現れていると思う。建設業であれば4月は暇な時期なのにお仕事の依頼を頂けるのは素直に嬉しい。

 

そんな中で新入社員さんと触れ合う機会も多く、色々と話をしていく中で思った事は色々ある。

僕ら長年建設業にいる人にとっては新鮮な意見と耳が痛いというか、変えれないよな中々と思う忸怩たる想いとこれからの人材育成の難しさを実感してきている。

 

特に感じた事は「とにかく失敗したくない」。

 

ここが強いと感じた。

会社的には教育していく中で失敗も経験、失敗しても取り戻せるなどの立ち位置で教えているところも多い。僕も勿論、そう教えられてきたしリカバリーもして貰えた。

その意識がなんで強くなってしまったのだろうと思うと世代間の考え方もあるけれど、それは遥か昔からあるだろうし、何故だろうか不思議に思っていて、会話していく中でやっとそこに気づけた。

 

「失敗はコスパが悪い」

この答えに辿りついた。

正確に言うとタイパなんだろうか。

タイムパフォーマンスの意味を改めて考えると、「時間対効果」とある。時間に対する効果が薄いものを強いたり、経験だなんてものはいらないんだなと。失敗して覚えろなんてのは、よく考えると確かにコスパもタイパも悪すぎる。言われてみると当たり前だと思うけどなかなかできない建設業の難しさと歯痒さ。

定着して仕事を早く覚えてもらいたいのに、失敗しても良いとか意味が分からないと取られてしまうのも仕方ない。会社の親心が仇になるパターンの出現なら経験工学な建設業界はどう戦うかがキーワードだろう。

 

ICTを業務効率や楽に現場をする目的が若手に興味を引く為の客寄せパンダにしている会社もある。人と言う分母が少なくなった時代にどう建設業は立ち向かうのかは試行錯誤だし、試行している間に淘汰される会社もあるだろう。

とにかく時代に合わせて生きていかなければならないのにその部分を置き去りにしてきた建設業界が大きなツケを払うときは間も無くだろう。

 

最強であればティラノザウルスは現代にも存在する訳で存在していないのは時代の環境に対応できなかったからだ。

ティラノザウルスたる建設会社は滅亡するのか環境に合わせて翼を生やしていくのには興味がある。

僕も時代に合わせて変わりたい会社をサポートしていきたい。未来を育てるしか生き残れないのだから。

 

 

 

建設業の初回タダ要求に意外な反響

ふとTwitterでマジかと思ったことを呟いた。

簡単に言うとお仕事のお話を頂いて打ち合わせに行くと、新人育成サポート、戦略コンサルティングの件でこう言われた。

「実力や効果が見えないから初回はタダでやって欲しい!やって反応があったらこれから色々と頼んでいく」と。

僕は即座に「実力というか評価してお仕事させていただいてる会社もあるので、今回はお断りします!」と言った。

すると「えっ!!?なんで!!!???」の答えに僕は絶句しつつ苦笑してしまった。

断られた事がなかったんだろうか、確かに大きな会社だと思うし付き合えたら、宣伝になったりと僕にとってはメリットあるかもと思うところもあるのは確か。だけどやっぱりキチンと最初からお金持ち払ってくれるクライアントさんもいるわけで、僕は裏切りたくないのでキッパリ断った。

でも断ってもモヤモヤしてる気持ちがあったのも確か。

経営者としては広告費と割り切るべきだったんだろうかとか、色んな考えが頭を駆け巡ったけれど、やっぱり嫌だ裏切りたくないと思って自分の考えは正しかったと結論して飲み込んだ。

 

ふとその事をTwitterに呟いたら、今15000いいねもらえたり、様々なコメントも頂いた。

感じたことは建設業界隈ではよくある話でその部分に共感してもらって反響頂いた気がする。

概ね断って正解と言ってもらえたけれど、中には「タダで初回は仕事してあとから取り返せば良いだろう」ってコメントもあった。

僕は思うけど後から取り戻させてくれるクライアントさんなんてほとんど奇跡的に近いのではと思ってる。現にいまでも資材か゛価格高騰しても転嫁できてないじゃないか。

マインドと立ち位置が違うクライアントとはよほど自分になにかメリットや勉強できるなど納得できる事がない限りは厳しいと思うし、僕はきっとこれからもやらないだろう。

スキル系の商売にはとりあえずタダ要求などが多いと聞いた。サンプルで判断できないのも考えものだし、日本は技術料にお金がかかってないと思っている人が多すぎる。労務単価の他に技術料はあるわけで、そこを軽視した結果、技術の日本は衰退してしまった。

僕は大手の戦略でやっている初回無料は良いと思うけれどその感覚を中小企業に求めるのは違うと思う。受注者が提案するのは理解できるけど発注する側が求めたら「脅迫」と取られても仕方ないよなと改めて思う一件だった。

 

初回無料やらトライアルはグルコサミンや黒酢だけにして欲しい。

無料ほど無責任なものはお互いに無いのだから。

 

 

f:id:die_blackend:20230324084907p:image

設計ミスは言葉で言うほど簡単じゃない

最近は大手の建設コンサルタントさんの設計ミスが発覚して、建設業は大騒ぎになっている。

ミスには色々とあるけれど発覚しているのを分類で見てみると橋梁や構造物が圧倒的に多く、仮設でも見られてきている。

ミスは誰にでも会社でも部内でも課内でヒューマンエラーからそもそも間違えてたまでいろんなパターンが複合的にミスに繋がっていくのが建設業の特徴なんだと思う。

先日は打ち合わせも終わり、現場所長と雑談していてこの話題になった。「この場合はどう言う保証?」「なんでこんなことに?」「誰も気づかないのかな?」などなど失敗の理由や原因を話したけれど、答えは出ない。だってミスは全部当てはまるから。

プロだから結果が全てと言ってしまえばそれまでだし、結果オーライでミスがあっても収まった現場もあるかもしれない。発覚したら悪で発覚しなかったらセーフなのか?問題はそんな単純じゃ無い。

この手の話になるとセットで湧いてくるのが、建設コンサルタント、発注者の「レベルが落ちた」って話。

確かに経験工学のウエイトが大きい建設業には包括的に現場を考えたりしていくのがチーム力としては落ちてるような気がする。発注者にしても個人の監督の力量プラス上司の体制でやっているけれど、

繁忙期や抱える現場本数を考えるとそこまではチェックというのも酷だなとも思う。その中で工夫しながら設計はよくやっているなと思う。

建コンは「こんな値段??」「ついでに設計して」なんてオーダーに答えながら設計し、発注者は予算取りしながら同時進行で次の現場の設計と今の抱えてる現場こなしてる。

業務効率化を刷新しようしている国や地方がブラック化していっている状況もミスに拍車をかけてきている。無理矢理な魅力アップをスローガンに週休2日制にしたものの、お天気商売ではなかなか苦心している施工業者も多い。

土曜日はパソコン使えないからと家でコソコソやっている人も多いのも理解するので情報漏洩なんて聞くと複雑なら思いは僕はある。

未だに日給月給な職人世界は月給だと嫌がる人もいて進まず単価も上がると社会保険料も上がるの連動タイプで建設会社も踏み切れない現状。

こんな様々な事情と都合を抱えて建設業は動いているのがリアル。

「これはどの立場でもミスするよね」が正直な僕の気持ち。

昔はどうだったかというと、ミスはあった。今ほど可視化されてなかったことも踏まえて考えると、あったけど今よりは大ダメージなミスは無かったのではと思う。

それがなぜかというと発注者、建設コンサルタント、施工業者と全員で現場の困り事やミスをお互いにアラート機能と相談窓口が気軽に使えた部分が大きかったように思う。効率化で現場の方でもチェックしながら段階的に現場を進めれていたものが一気にやる事が多すぎてすっぽ抜けてアラート鳴らせなくなったことも原因だろう。

 

人手不足、業務効率化、建設DX、働き方改革などなど理想が最先端過ぎてコントロールできないから書類や手続きが増えた結果、理想の真逆に走ってしまっている。

段階的にやっていけば良かったのか?というとそれだといつまでも変わらないのも現実。急ハンドル気味じゃ無いと変わらないのが建設業なのだけど、今の感じはルールが設定されていなくて各自に任せる部分多いから業務が増えている。

とにかく業務量と本来のモノを作るところから乖離している今じゃミスも起きてしまうだろう。

 

なんでも取り組むと工事点数が上がるシステムや人手不足を解消したいのに休ませたりではなく選択制にする、効率化の為の書類や申請を少なくするなどで評価していく方式にしないとミスではすまない事が多発する気がしてならない。

 

建設業の全関係者が会社単位で効率化はある程度はしている。AIの話をする人も多いけど、結局はツールなので。建設業のクライシスはインフラじゃなくて人間側な気がしている。

承認欲求が可視化されたのか可視化が承認欲求を探したのか

スシローでの迷惑行為が最近は話題すぎる。

株価は160億も下がってしまい損害賠償金も同額とは言わないまでも、相当な金額になるのだろうと思う。僕が見て思った事はこういう事をしている奴は昔からいたけれど、動画に残すなどの可視化されることは無かっただけだろうとも思うけれど、動画化で話題になったりすることで、模倣犯がでてくる感染力の高さが怖いと感じた。僕が住んでる町にもスシローはあるけれどそこそこ人は入っているように見える。動画を見てしまうとたしかに敬遠したくなるのも分かる。

 

改めて「可視化」の意味を考えてみると目に見えない物を映像やグラフで表現してとらえやすくする事。目に見えない物が発表できるサイトの登場で迷惑行為に変換されて、こんな事が起きている事が分かった。

よく聞く「可視化」と「見える化」はなにが違うかも調べてみると

・可視化は必要な時に見えるようにする

・見える化はいつでも見える状態にする

そこで可視化される事は元々ブラックボックスだったものを見えるようにしましょうが発端で例えば警察取り調べなどを可視化する事で違法捜査や冤罪を防ぐことができるなどお互いにメリットが生まれてきたり、これから進めば良い方向に向かうはずのシステムがこんなことになるののはなぜなんだろう?

 

可視化のはじまりは僕が思うに町中に監視カメラが多く設置されることで、犯罪の抑止力や逮捕に繋がる有効性が認知されたことだと思う。その中で様々な可視化する概念の無い部分を見えるようにすることで公明になっていく事が大事な時代の風潮もあって普及してきた。光があれば影もあるように、動画化する事で話題になったり周りにアピールする事ができるインスタ、ティックトックなどのSNSが標準になると、一気に迷惑行為の動画が噴出してしまった。

意味が分からないからブログで文章にしてみたら自分でも少しは理解できる感覚なのかなと思い、書いているけれど正直な所は意味を見出すのは意味がないと思ったのも事実。これからも所謂バカッターと言われる人はドンドン現れるだろうと思う。

ただ「なんでこんな事を?」「こんなに報道されて人生を棒に振るかもなのに何故?」結論は「バカだから」が分かりやすいのかなと思う。

バカッター=バカ+ツイッターでバカッターなる本質を突いた造語は2013年程度にできた言葉で無事に今年で10周年を迎えて進化した感さえある。

 

行き過ぎた行為は行き過ぎた「承認欲求」のなれの果てなのか。承認欲求と言う言葉は最近は悪い意味で使われることも多くなったけど本来は承認されたり褒められて認知されることで意欲が高まったり、成長したなんてエピソードもある。でも成長したから認められたとか因果関係もハッキリしていないのも事実である。

悪い面に関しても色々なパターンがあれど成功から悪いパターンに陥ったケースはたくさんあるらしい。どんなパターンかと言われる例えばある建設会社で表彰制度を設けてMVPを表彰して金一封などの賞金が贈られていた。

表彰されたMVPのその後はエースとして活躍かと思いきや高確率で退職する。

逆効果になってしまいその建設会社もいろいろと検証すると理由が少し見えてきた。

・表彰されたことで自分の市場価値が高まり待遇の良い会社に転職した。

・表彰されたことで周囲から妬まれることになった。

上記の理由を検証すると転職した会社の方が待遇が悪かったり、周囲に妬まれるケースも元々勤勉な人も多くて可能性は低かったそう。

 

これでは承認欲求が認められた人が退職していく理由が全く把握できなかったけど、退職した表彰者と話す機会があって理由が見えたらしい。

「期待に応えたい承認欲求の呪縛」

本来は優秀だったりすることが認められる事は喜ばしいのだけど、表彰したことでやる気が出たろうと言う会社の思いを課題に感じすぎて期待以上の事をしようとすることにプレッシャーを感じて心身共に疲れて退職したのが理由らしい。

評価方法がSNSになったことで最少は小さな身内で笑えるバカな行為だったんだろうと思う。その小さな期待が自分の中で大きなプレッシャーになり次のバカな行為を繰り返していく呪縛のなれの果てなのかも知れない。

身内ベースで笑えてた事がスタートなので何かの拍子で全国で炎上する案件になる事への理解と認識の遅くなるのかも考えている。

 

最近は自己肯定感が低い若者が多いからほめて伸ばす教育が主流になりつつあり、効果は出始めている一方で褒められる事で褒められることを求め個性が失われる結果もあるらしい、じゃあどうすれば良いのかと思われるけど、何事もこれが絶対は無いだろうし、褒める事が能力を伸ばす事の万能薬だと思わない事だろう。良い事は褒めれば良いし、ダメな事や世間に迷惑をかける事はそれ相応の罰の他にSNSで発表したら何倍もの罪を背負う事を叩きこむ事が大事なのかもしれないし、悲しいけれど現時点ではそこしか防ぎようがない。承認欲求は甘い快楽と死に至らしめる劇薬にもなりえる事を。

 

子供の頃に回転寿司に行くと自分で選べたり、回って来るお寿司を取る事をおいしい以外の楽しさがあった。子供達の外食への楽しさや嬉しさと店の未来を奪ったことの罪は重い。

 

www.youtube.com

習慣化を考える

あけましておめでとうございます!

今年もよろしくお願いします。

1月初めてのブログになりますけど、何か理由があって間が空いたとかではなくてただ単純に忙しかったを理由にサボっていただけが理由です。そこで今回のテーマを考えたいなと思いました。できそうでできない「習慣化」について色々と思うと、そう簡単になかなか習慣にはならないだろうやハードル上がりそうだなってイメージがある。

そもそも習慣化とは?となると同じ状況のもとで繰り返し行われた行動がやがて定着化して意思とは関係なく自動化されていくことらしい。

 

典型的な自動化された習慣は日本人だと誰もが行う箸をもつことなんだそう。確かに自動的に箸を持ってご飯を食べます。要約すると「やるかやらないか考えないでやる」と。

同じ事を繰り返すことで作業が染み付いて習慣としてやらざるを得ない状況になる。

理屈は分かるけど難しくなってきました。

では習慣化さえしてしまえばどんな状況になるか噛み砕くと。

その行動をしないと気持ち悪い

その行動をするのが当たり前に感じる

頑張らないで継続できる

なんて状態になったら習慣化の成功なんだろう。

メリットは自動習慣で継続できたら多大なメリットしかない。小さい成功体験の積み重ねで自己肯定感の向上もできると。これはイイね。でも実践がなかなか難しい。

 

習慣化の成功のポイントが継続の肝になりそうなのでできそうなものから考えてみる。

大前提として「多くの人は意志の力だけでは行動を継続できずに挫折する」って事が大事な認識。なので挫折して自分はダメな人間だと劣等感に苛まされらされた必要は無し。自肯定感も下がっちゃうしね。習慣化に必要なことは「一定期間の繰り返し」。しかも期間は研究結果で必要日数は18日〜254日と平均すると66日と具体的な研究成果もあるらしい。なんでこんなにレンジが広いかについては習慣化する事の難易度に起因している。例えば毎日、水を1L飲むは難易度低いけれど毎日、腹筋100回はなかなか難しいというように。いずれにしても一月は最低かかると覚えておくと気が少し楽に。

 

細分化して考えてみると少し勇気が湧きませんか?

 

逆に成功のコツで大事な事は何だと思うと「実際の効果とMyセレモニー」が大事なのではと。ルーティン的に行動する事を明文化や可視化する。あとは効果見えたら記録する。ゴールを細かく設定してMyセレモニーで祝う。これが長続きできるコツになりそうじゃないかと思う。

1番習慣化の本当に大事な事は挫折してもまたやり直せば良い。

挫折や失敗で自分を責める事は無い。

習慣化は時間がかかると思っておく。

 

「失敗するのが難しいくらいの目標を設定しながらステップアップすれば良い」

 

色々と習慣化について考えてみると仕事にも通じるところが沢山ある。やっぱり継続は力なりという言葉は偉大だなと。継続するには小さい目標の積み重ねで成果を取ろうと。

仕事も習慣化も時間はかかるってことを理解できたのは大きい。なかなか人手不足な建設業界だと求める事を大きくしたり、それに応えようとする人も疲れて辞めてしまうことも多い。

小さく継続させるが人を育成する事にも大事だし、挫折失敗はやり直しが効くし、自分を責める事は無いと。

 

まずは小さく僕もブログを習慣化できるように、長くやりたい。

書かなきゃーなーとか思うって事は習慣化の小さい小さいスタートラインにいると信じて。

叱るを考えてみる。

新人コーチングをしていると、管理職の方に叱り方について聞かれることがあり、叱ることについて自分の中で考えてみたい。

まず怒るは問題外だとは思うけれど、「叱る」は組織として非常に重要なんじゃないかと思っている。

ややもすると叱るですらハラスメントの一種に括られるかも知れないけれど、怒るが感情的であって、叱るは立ち位置が違うと捉えている。

じゃあ「叱る」の定義はと聞かれると、僕は行動を否定せずに諭すことがメインで教えるって側面を持っている事じゃないかと。

だけど最近聞く話としては叱って変な風に捉えられて、退職されたら困るなどの事から「叱ると損する時代」に上司や経営者も突入していることから尻込みしている。現実的に総体的に叱ることが少なくなってきている事からか叱る効用が十分に発揮できなくなってきてる。

又、経営者も上司も叱り慣れていない事から感情移入してしまい、叱るつもりが怒りに変換されて悪循環のオンパレードになってきている。

人手不足の中でやっと入社した新人に気を遣うの良いけれど、退職を恐れて叱らないのは無関心に等しい行為だと思う。ある意味はお互いに楽な事かも知れないけれど、何も役に立てない事が多くて最悪なコミュニケーションだと言える。極端な話をすると叱る事のない無関心な上司に甘えていたら会社での地位も給与もそれなりで終わるだろう。上司も部下もとにかく叱る、叱られることは立派なコミュニケーションだと思って実践して欲しい。

褒めるのは簡単だけど叱るのは難しい。それは叱る事は相手の嫌がる事やこんな事言われたら困る事を言うからだ。だからこそ口先だけではなくて本気で叱らないといけない。嫌われたくないが叱るを阻む。人間だから勿論、波風を立てる事は避けたいし、そもそも好かれたいし、良好な現場で環境で仕事したいとお互いに望んでいる。でも組織や仕事やっていく中でその状態に持っていく事は難しい。お互いに譲歩して譲り合ってそんな環境を危ういバランスで保ちながら築いている。そんな関係の中でも叱る場面は出てくるわけで、どう叱れば良いのかを考えてみると。逆から考えてみるのはどうだろうと思った。例えば上司は部下側だったらこんな叱り方されたら嫌だや部下から上司はこんな態度や言動があったなら叱る意味なんて無いなんて思ってしまう事を意識する事が大事なので叱るときの基準やルールはこの辺が妥当ではないのかなと考えてみた。

失敗を叱って挑戦しない事や怠慢を見逃していないのか?

大きな失敗ではなくて小さな失敗を叱る

相手の目線に合わせて叱っているか?

叱る中にも愛嬌はユーモアはあるのか?

叱る前にキチンと褒めて評価しているのか?

自分が建設業界に入ったばかりの時にはパワハラなんて言葉は無くて、叱りを通り越して怒鳴る人が多かった。そんな中珍しく僕に仕事教えてくれた師匠は非常に論理的な人だった。小さい事を良く怒った、小事は大事って言葉があるように小さい失敗の繰り返しが大きい失敗を呼び込む側面があるのか、小さい事を叱られているうちに、あまり大きい失敗はしなかったし、リカバリーできる範囲だった気もする。

最初は細かい事を叱られて面倒くさいやこんな事までと思う事もあったけど、説明は論理的で笑いもあり叱り上手な人だったと思う。

叱る事を諦めて良好な関係風を作る事はできるけれど果たしてそれで良いのだろうか?

叱らない会社は劣化の一途をたどる。無関心は敏感に悟られるし、真剣に叱った結果であればその後の結果については反省材料にすれば良いだけだ。

 

小さい事を叱れと言うのは大きな失敗に繋がる可能性を少しで減らしていく効果も勿論あるけれど、違う効果もあると感じている。

小さく叱ってきちんと褒めて評価する事を繰り返すことで上司も叱り方に慣れるし、叱られる方も慣れていく。マンネリは避けるべきだけど、そうした関係の中でやっと良好な関係もみえてくるかなと思う。

真剣に仕事している上司の叱りには信念があるから相手に必ず伝わると僕は思う。

ヘラヘラ媚びても値踏みされるだけで信念をもって論理的に叱る。

叱る方も叱られる方も叱り上手と叱られ上手の関係がお互いの成長を促進させるし、居心地の良い組織の第一歩になると僕は思っている。

絆は鎖か足枷か

最近はご紹介を頂いたり様々な形で建設会社と関わり合う事が多くなってきた。勝手に僕はプロ御用聞き戦略と読んでいるけど、まあ大なり小なり建設会社は困っている訳で相談を受けたり話を聞く事が多い。話を聞く事やご提案できることについては費用も貰わないことにしてる。気軽に何でも聞いてもらわないと本音の部分は見えてこないのが戦略コンサルなのかなと考えているからだ。その後に契約してもらい、いろいろ形で会社を楽に社員の幸福度を充実さて利益を出していく戦略を立てていく。

僕も経営者になり営業して利益を出していかなきゃならない訳でコンサルティングしてますといいつつも試行錯誤を繰り返している。まあ大企業の社長もスケール感は違えど、不安で夜寝れなくなったりしているだろう。資金繰りの事で悩むのは昔から変わらない事ではあるけれど最近の最大の悩みは人材不足に伴う、社員の確保や新卒採用などに苦心しているのが建設会社。職人さんも現場監督さんも想像のつかないスピードでいなくなり、市場価値を知り、周りと比較できる現在では社員の入れ替わりの激しかったり、新卒もすぐに辞めてしまう現実がドーンと横たわり、仕事はあるけどできないジレンマで会社戦略の練り直しが多くなってきた。

 

社員が自分の市場価値を知ることは勿論良いことであって今までが閉鎖的すぎた部分は多分にある。価値観をお金と比較しつつも人間関係や会社のヴィジョンも加味して働く人もいれば、お金第一なら価値観の人もいて、この人物はずっと我が社にいてくれると思うのは間違いになっている。会社としても常に色々な金銭以外の提示や魅力を構築していかないとならない訳で、ベテラン、新入社員にとっても大事な要素が細分化されている。

 

タイトルにした「絆は鎖か足枷か」は従来の日本雇用型システムでもあるメンバーシップ型と言えば良いのか、ファミリー型という考えでは鎖と足枷でしかないだろうなと思ってしまう。

例えば「会社の仕事だから100%頑張ろう」、「飲み会だって仕事の一部だから」などなど建設業では現在でも悪い思想がこびりついて、ブラック企業の良い菌床になっているイメージさえある。家族型の安心唯一無二の形を押し付けて、絆が深まってきたと勘違いをする。逆に抵抗感のある社員に関しては何故もっとグイグイ仕事しないのか?など気持ちよく働いて成果を出すのが会社なのに仕事より家族の輪を乱す奴を吊し上げる傾向すら見える。これでは絆は鎖を巻かれて足枷となり、そうなる前に退職しようとなる訳だ。

 

家族システム雇用は簡単に言うと楽なんです。ハマる人だけ残れば良いしダメな奴は排除するだけだから。でも人がいない現在は分母の数が減って破綻しつつあるマネジメントシステムとなってしまったのでした。体調不良で100%の力を出さなくても補い合えるシステム、参加したくなる飲み会の方向を考えることにリソースを振るべきなのです。

 

お互いの距離を0に近づける事が絆の時代は破綻しました。お互いにとってメリットある距離感こそが本当の絆になっていくのだらうと思います。

御社はそれでも「鎖と足枷で社員を支配する事を絆だと勘違いし続けますか?」